じくじくじ中

 ええ私が吐くのは正論です(別に最近誰に言われたわけでもない)。隙がないでしょう、なぜなら客観的に広く見た上で答えを知っているからです。追いつめられるでしょう、なぜなら逃げ道を容赦なく潰して行くからです。
 たまにそうでないこともあるが、なぜか多くの場合答えを知っているのは私のほうで、他人から新しい道を提示され開眼することはめったにない。他人の言を容れる素地、度量がこちらにないと言われればそれまでだが、何かを話していて「ああ、そうか」となるのはだいたいが相手の方。私が間違ったことをしているときは、間違っていることを知ったうえでやっている。それについて他人に指摘されたところで「わかってるんだけどね」としかならない。話のなかで相手が初めて口に出す新たな可能性も、私のなかにすでに在るものであることが多いので「そうか!」でなく「そうだよね」となる。すぱーっと風を通してくれる外気があまりないと、自分のなかでなんだか全てが忸怩忸怩としてくるわけ…。というクダを眺めて「こんな事言ってこの子まだわかってないわね」と苦笑するオトナの方々のこともなんとなく視えつつ…。
 あのね、要は、たまには引っぱってもらいたいんだよ誰かに。自分で波をかき分け続けるのは少々疲れるのよ。全然小っさなことでいいのよ。男女関係にしたって今まで私を引っぱりたがった男はいたけど実際引っぱれた男は居なかった。だいたい引っぱりたがった時点で、引っぱれないことはほぼ確定してるのね、ていうのを彼らはわからない。「君を支えたい」「守りたい」の時点で既にぶらさがってるでしょ。引っぱるどころか支えることもできないわな。
 でも今私が力を無くしたときに、引っぱってはくれなくても前に立ちふさがって防波堤になってくれる人がいる、きっとそれだけでこの上ない幸せなのでしょう。
 でもさあ、私がたびたび周りを引っぱってるってことは要は誰かに引っぱってもらってる人はそこら中に存在してるってわけでしょう……ブツブツ あ、でももちろん自分ひとりで全てをできるどころか何分の1もできやしない、支えてくれる人はたっくさん、手に余るくらい居ます。それでいいのか。そういうものか。いや、でも舳先で波を切ってるのはやっぱり私なわけで……。あれ、堂々めぐり…。あ、でも学生のときは引っぱってくれる人たくさん居たなあ、私の代わりに履修組んでくれたりノートもらってきてくれたり(結局こういう奴ですから)。大人になってしっかりしたってことか、そうか。いやでも私が引っぱってる相手も大人であって、てことは私を引っぱってくれる大人がいてもいいわけだ…。あれ、堂々めぐり…。
 まあ、引っぱってもらってるんだろうな、折にふれて。それをそうと感じない私が恩知らずっていう線が一番現実的でしょうね。