29金 ベンガルの吟遊詩人

 午後、病院。夕方から、元職場の知り合いが教えてくれたアジア音楽の無料レクチャーコンサートを聴きに和光大学へ行く。しみじみ雨が降っており、多摩の土気の中で感じる梅雨は匂い立つようでいいなあと思う。梅雨って、意外と都会以外の土地ではいい季節なのかも。
 日本では殆ど知られていないベンガルの吟遊詩人の集団「バウル(Baul)」の音楽。よくインド料理屋なんかで薄く流れているようなやつに近いのかな。
 コンサートといってもちょい広めの教室の教壇を使って行われる小規模なもので、聴衆も学生や学者、近所に住んでる親子、的人達がぱらぱらという感じ。はるばるやってきた閑人部外者は私くらいじゃなかろうか。予備知識も何もなく、好奇心の赴くまま聴きに来たのだが、気づけば両頬づえで耳全開にしている自分が居た。弦数の少ない弦楽器と小太鼓と鈴が主な楽器で、軽い拍子に合わせて体を動かしたまに軽く踊りながら歌う。その音楽、歌声の自由なこと。自在に伸び、鞭のようにしなる。艶が見える。これぞα波という振動がくる。そしてまた楽しそうに歌うんだ……。その楽しさまで伝播してきて、終わる頃には私自身ホカホカしていた。 
 いったいどんな詩をうたってるんだろうというのが気になって関係者らしき人に訊いたところ、内なる神や自然のことだろう(「だろう」ってのが笑える)とのこと。勿論その場でCD*1を買って帰って来た。
 詩の内容はよくわからないが、とにかく私が彼らの音楽から感じたのは「自由を表現している」。カースト制を否定する人達ということだが、厳しい自然のなかを流れて生きている彼らの物理的自由度というのは実はそう無いだろう。少なくとも、ぼーっとしていても最低限生きていられる多くの日本人よりは無いだろうと思う。でも「自由」ってそういうものだけではないすよね。物理的にであれ人間関係的にであれ、生きててそういうつながりから完全に解かれている人間などいない。仮に社会生活がなかったとしても根源的前提である親子関係無しに存在することは有り得ないわけで。単純に関係を切り離すこと=「自由」ではないしそもそもそういう物理的な処置で深に自由にはなれない。というかそんな自由なら要らない。彼らの歌う「自由」からは、違う次元で他の誰も介在しない、彼らの内にある広大な自然が感じられた。ベンガルの大きな自然からくるものでもあるのかな…。日本でもこういう音楽があるのなら聴いてみたいと思った。
 帰りはもちろんカレー。こういう単細胞な所は好きさ。

*1:説明書きは英語と韓国語